やりたいことリスト100と突然の絶望感

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今週頭くらいから、やりたいことリスト100を書いている。もう週末を迎えている今、まだ59個。どうしたものか、意外と100個書き出すのは難しい。


お金も時間も能力も才能も何の制限もないとして考えろというのが条件だが、それにしても、書いているとだんだん「これしょーもないかな」とか、「最愛の人と居られればそれ以外望まないかな」とか思えてくる。

(まだ隣に最愛の人が居ないので、「隣に最愛の人にきていただく」←やりたいことリスト1 )


だんだんリストを書くことに尻すぼみしてる様な感じだけど、生きる希望のようなやりたいことリスト100。


それを書いてた週の中頃、突然、どうすることもできないような絶望感と死にたい欲に襲われた。それは、お昼に某ショッピングモールのフードコートにいて、親子丼を食べたいと思って親子丼を食べ始めた時だった。


「今一番食べたいものを食べているから満足だし、これまでもこれからも全部全部ぜーんぶ、あらゆることが全部嫌!!なんかわかんないけど嫌!!無理!死にたい!!」と、フードコートにいる私は何食わぬ顔で親子丼を食べながら、心の中の私はライヘンバッハの滝へワープし滝壺に向かって大声で叫んでいた。


その時の絶望感たるや。これまでも躁鬱病希死念慮に悩まされてきたけれど、群を抜いた絶望感!圧巻!スタンディングオベーション!その拍手で叩かれまくって死にたい!


ってぐらい、絶望感と死にたさに襲われた。

親子丼は美味しかった。


親子丼を食べ終えてから、友達に連絡して似たような体験をしたことがないか聞いてみると、「最近は全然ないけど、人生に期待してたときは時々あったなぁ」と言われた。


死にたい思うてるのに人生に期待してるんですかこれ!?って度肝を抜かれた。


確かに、死にたいというのは、そう思うことや気持ちを人と話したり共有したいと思っているからで、つまり、人と繋がりたい、生きたいと思っているからだという考え方に、冷静な時の私は頭が飛びそうなほど首を縦に振る。


友人も同じようなことを言っているのだろうが、「人生に期待」とはまた違う意味合いを持つような気がするのだ。少し胸がざわざわする。私は、人生に期待してるのだろうか。やりたいことリスト100を書いてたからだろうか。



その友人はその後、「死ぬまでにやることもっとあるでしょ!」の後に「タバコとか!ケンカとか!」と続けた。もうそれだけで、最高だなこの人はと思う。私はどちらもやったことがない。やりたくても怖くて出来なかったのだ。優等生を演じることなら優等生だ。でもどうせ死ぬなら、そりゃもうワルソと言われるものをやりたい、ぜひやりたい。


友人は続けて「各種賭け事とか!」と言ってきた。あぁもうぜひやりたい!


これがもし、「結婚とか!海外旅行とか!」なんて言われてたら、その提案と生きることの両方を即座に却下したと思う。いわゆる幸せと思われるものをぶら下げられても、それをやりたいとも生きたいとも思えないのだ。


だけど、多くの人はそういう提案を言う。もしくは「死にたいとか言っちゃダメだよ」「そんなこと言わないで」などと言う。正直、クソ喰らえと思う。


世の中そんなに甘くないとはよく言うが、希死念慮に囚われた人を引っ張り上げるのもそんなに甘くない。


今回は話した友人に助けられた。もうタバコとかケンカとかと言われた時点でかなり絶望感が消えていた。


あとは歳を重ねるごとに増す恐怖にも助けられた。死にたいと思ったらまず死ぬ方法に考えを巡らすわけだけど、溺死や首吊りを考えると死ぬまでの数分の恐怖が、昔よりもずっとずっと色濃く鮮明にイメージできてしまい、とても死ねないと思う。オーバードーズも考えたが、死にきれなかったときのことを思うと恐怖に打ち震えた。


おかげで、一日もすればあの絶望のスタンディングオベーションは全員着席して大人しくなった。


絶望感を救うのは、愛や温もりだけではなく、恐怖やワルソといったある種の絶望的なものだったりするのだとわかった。

(本当は最愛の人に抱きしめてもらって解決したい←やりたいことリスト2)



それにしても、かなり辛い時間だった。

これまで何度も辛いと思ってきたが、今が一番辛いと本気で思った。


辛い嫌だ死にたい!と滝壺めがけて散々叫んでいた崖っぷちから立ち上がり、滝壺に背を向けて離れ始めたとき、ふと、「今が一番辛いって、そりゃそうじゃん」と思った。


辛い、嬉しい、悲しい、楽しい。


ご飯を食べても時間が経てば消化され、またお腹が空くのと同じように、感情も、その感情を味わった「今」から時間が経てば消化されてしまう。記憶には残っても、また新たな「今」の感情が一番自分の近くにいる。


私たちが今味わうことができる感情は「今この瞬間の感情」だけ。

過ぎ去った感情たちは、思い出すことしかできないのだ。


そりゃあ採れたてで鮮度抜群の「今辛い!」が一番辛いだろう。


今までも、これからも、生きてる限り、何度も何度も「今が一番辛い!」と嘆き、何度も何度も「今が一番サイコー!」と笑い、味わい、思い出になっていく。



「今が一番辛い、死にたい」と思う自分を、少しは許してあげられるような、受け入れてあげられるような気がした。


そんな思いも簡単に、突然の絶望感や、夜の暗闇に飲み込まれてしまいがちだけど。生きてみるのも悪くないかもしれない。

生きてみナイト。








明日もいい日でありますように。