掴みかけたはずのものは何だったか

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何かがだんだんあいまいに死んでいくような付き合いより

すみわたる夜空のような孤独を

ー「すみわたる夜空のような」銀色夏生

 

2日前の3月11日。11年前に亡くなった父方の祖母の命日だった、らしい。聞いたときに、え、ほんと?と思ったのは、それなら、7年前の大震災の時にはっきりと記憶に刻まれていてもおかしくないと思ったからだ。だけど、きっとその日も、そして、それ以外の年も、平日は学校や仕事でお参りにいけないからと、前後の土日でお墓やお寺にお参りに足を運んでいたからだろう。大学入学を機に地元を離れた私は、余計に祖母と疎遠になっていた。仏壇のない我が家には代わりに写真が置かれていたけれど、私が地元を離れた頃からだろうか、もはやその時期も定かではないけれど、いつの間にか写真がなくなっていた。

 

味気ないだろうか。もっと手を合わせるべきなのだろうか。

小さくて、柔らかくて、氷川きよしさんが大好きで、いつも小さな缶ジュースをくれた(8割方つぶつぶみかんジュースだった)、優しいおばあちゃん。

おばあちゃんの死が、私にとって初めての死との対面だった。病室で、失ったおばあちゃんの温かさの代わりに、兄の温かい手が頭の上に乗せられたのを今でも覚えている。それまでもお兄ちゃんっ子だった私は、それからもお兄ちゃんっ子のままだった。兄とは絶賛喧嘩中なので、なんかちょっと泣けてくる。早く謝らなければと思う。兄はともかく、思い出す日も、手を合わせる日も、とっても少なくなったけれど、忘れていないよと、今年の命日にはしっかりとおばあちゃんを想った。

 

命日の話からさらに思い出が掘り起こされた。

ちょうど、小学校の卒業式直前にお葬式だったので、卒業式のリハーサルを休まざるを得なかった。合唱の伴奏をやることになっていたので、最後のリハーサルに出られないことは、私にとってなかなかに大きかったのだ。

 

5歳から習い始めたピアノは、親にも友達にも聴かせたくなかった。中学の頃には近所迷惑を一番の理由に、自宅のアップライトピアノに、マフラーペダルを踏んだときにクッション機能を果たす布(音が吸収されて響かなくなる)を一枚増やしてもらったほどに、親に聴かれたくなかった。ちなみに、強弱つかないし鍵盤重すぎて練習には超絶不向き(笑)

学校の図工の時間に作る工作、描く絵、習字、理科のまとめノート、何かと書かされる感想文、一人ずつテストがある歌、何であろうと人に見せたくなかった。ピアノも含めた全てのものが、自分の頭の中も心の中も全てを露わにしているような気がして、それを見られたくなかったのだ。しかし、成績をつけてもらわないといけないので、もちろん担任の先生には見せていた。そんな私が、なぜか卒業式の合唱の伴奏をやることになったのである。よって、小学校6年生の時の担任には、ノートや絵の他にもピアノを聴かせる羽目になった。学校のグランドピアノに慣れるために、先生立会いのもと、一人で弾かせてもらったりもしたので、練習から聴かせざるを得なかった。

その担任はあまりピアノを弾ける人ではなかったこともあって、私が間違えても、間違えたことも含めて弾けることが素晴らしいと、褒めてくれた。毎日、連絡帳に赤鉛筆で一言を書いてくれる先生で、卒業式のリハーサルで伴奏をやった日にはだいたい、褒め言葉を書いてくれていた。卒業してから、何度も何度も連絡帳を見返した。絵や習字や理科のまとめノートも、褒めてくれていた。多分それまでの先生たちも褒めていてくれたのかもしれないけれど、残念ながら覚えていない。

 

連絡帳に書かれた赤鉛筆の文字を思い出したとき、もしかしたら、もっと人に見てもらい、聴いてもらい、褒められたり叱咤激励されたりと波風が立っていたら、私はもっと、自分が好きなことを好きでいられたかもしれないと、ふと思った。大好きだったけど誰に聴かせるわけでもないピアノは、だんだんと弾かなくなっていった。書くのが大好きだった文章も、絵も、授業でやらなければならない時以外はやらなくなっていった。いくら自分が好きなことでも、どんなに見せるのが嫌だったとしても、人に聴いてもらったり見てもらったり味わってもらったりすることが嬉しいのだと、ようやっと感覚的にわかった。

 

自分のためだけに生きるのは虚しい。誰かのためになりたい。

歌も、音も、声も、聴いてくれる人がいなければ、発する意味がなくなってしまう。

絵も、言葉も、ダンスも、見てくれる人がいなければ、発する意味がなくなってしまう。

受け手がいないと、発したものは生きてはいかないこと。

きっと何度も気づく機会はあった。なんとなく知っていた、この感覚。

 

こんなにも気づいているのに、友人達と繋がっているSNSでブログを紹介や拡散するのはとても気が引ける。私はこれを書きたいと思って書いているけれど、実際、友人のこんなのがSNSのタイムラインに上がってきたら、何だこいつと思ってしまわれるのではないか、いろんな思いを絵や音楽やダンスや小説で表すことができる人がカッコ良くて好まれるのではないか、ブログにしても、もっとうまく書くことができて読者がいっぱいいる状態でならいいのではないか。そんなことを思ってしまって、ちっとも拡散できない。だけど、別アカウントを作ることも違和感で、それはそれで違うのではなんて思ってしまう、というか不器用でめんどくさがりなのでできないだけである。

 

カッコ悪い自分を、晒すのが怖い。

自分の中を、晒すのが怖い。

でももう、実際にやっている人を「いいなぁ」と指を咥えて見ているのはやめたい。

でも怖い。

怖さでやれない自分で晒すのが怖い。

 

そんなことを思いながら、自分が変わりたくていろんな人に会いまくっていた2年前に出会った人が私のことを書いてくれていたブログを読み返した。2年前の私は「自分を責めるのがダメだとわかっていても責めてしまう、そんな自分を責めてしまう」という無限ループのような悩みを話していたらしい。その人は、それでもいいと、それさえも認めてあげられたらいいねと、世の中は私が思っているよりずっと優しいよと教えてくれた。2年前のその時は、確かにそのことを掴んでいたはずなのだ。そのことを掴み、次へ、また次へと足を踏み出し、人と出会ってきたはずなのだ。それなのに、いつの間にか掴んでいたはずのものを落としてきたようだ。今はまた同じ悩みループに突入し、「世の中なんて。こんな私なんて。」と疑心暗鬼と自己嫌悪という名の自己愛が全開である。

 

昔と同じような悩みにぶち当たる度、私は何も変わっていないのかと愕然とする。

愕然とする度、連絡を取ろうと思う人たちは皆、昔と何も変わらず優しい。

 

そんなに人は簡単には変わらないってことなのか。

それとも思い出す人や出来事が変わって行くことが、変わっていっている証なんだろうか。ただ、生きているっていう証なのだろうか。

変わっていっても、変わらなくても、生きていっていいのだろうか。

 

5文字程度の、たった一言のLINEに盛大に傷つくような弱くてカッコ悪い自分を晒しながら生きていってもいいのだろうか。

 

生きていっていいと言われるのかはわからないけれど、

笑われても、後ろ指さされても、叩かれても、

私は私を生きたいのだ。

 

昔、そして、今、

掴みかけたはずのものは、果たして何だったろうか。

掴んだものは、何だろうか。

 

 

 

 

 

明日もいい日でありますように。